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21・永田町のエスカレーターを登るよろこび
片岡健一
月刊カドカワ連載(1991.5月号)より

先日、僕は有楽町線の永田町駅から半蔵門線に乗り換える時、長い長いエスカレーターに乗っていました。
永田町っていえば日本の政治の中心地。僕以外はほとんど背広姿のサラリーマンばかり。何の飾り気もない場所ですから余計寒々しい光景だなと思いつつ僕はふと興味深いことに気付いたのでした。
背広姿のサラリーマン達は、その長い長いエスカレーターに足をかけると見事に左側に寄って立ち止まっているわけです。急ぐ人は右側を登っていくわけで、でも、これって別に規制でも何でもなくて、皆、自主的にマナーを守っているわけなんです。

外国に行くとよく日本人は礼儀正しい国民であるかのように言われたりするのですが、それは日本人の“建前”だけの一面を見て判断しているに過ぎないのではないかと思うわけなんです。日本人ほど“建前”と“本音”をうまく使い分ける民族は他に類を見ないのではないでしょうか。本来、なぜ人類が社会にルール(マナー)を作ってきたかというと、人と人とが快く生活を営めるように互いのことを認め合ってうまく共存しようとしたところから始まってきた、ひとつの知恵だと僕は思うのです。でもどうでしょうか?建前だけとはいいませんが人と付き合っていく時、よくその建前を使ってしまう日本人って本当に相手の存在を認めていることになるのでしょうか。建前ではエスカレーターの左側に立ち止まるけど、本音では人のことなど考えていないんではないか、大勢の人がそういていることでひとりだけ乱すわけにもいかず、一応左側に立っているのではないのかな、とどうしても思えて仕方ないのです。

僕は旅をしていろいろな人を見かけます。ミュージシャンという仕事を通して最近数多くの人達と話しをします。でも本当に“出会えたな”って感じられる出会いって数えるほどもないわけです。人って本当は誰とでもわかり合いたいってどこか思ってるはずなんです。だから孤独になってみたり、人ごみの中にいると異様にさびしさを感じたりするのではないのかな。でも出会いがないっていうのもさびしさを感じてしまうのも結局は自分に問題があるわけなんですよね、きっと。相手のことはわりとよくわかっても自分のことはなかなかわからない。自分が出会おうと思えばそれで“出会い”になってしまうんだと思います。

「マナー」っていうのはこういうところからもちょっと考え直してみると、いろいろと発見があるんですよね。湾岸戦争時にテレビのニュースで日本政府の対応を観ていたら、なぜかこの永田町のエスカレーターを思い出してしまった僕はちょっと被害妄想の気があるのかな。
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